歴史

ヴォワチュレット

フランスのパリ郊外に住む技術者であったルイ・ルノーは、1898年にド・ディオン・ブートン車の改造によって、現在のプロペラシャフト式フロントエンジン・リアドライブ方式(FR)の原型である「ダイレクト・ドライブ・システム」を発明した。この斬新な機構は瞬く間にフランス中の自動車会社に模倣されることとなり、1914年に特許が切れるまでの間に当時の金額で数百万フランを越える莫大な特許料がルノーに転がり込んだ。

1899年にはこの機構を搭載した自動車「ヴォワチュレット」(Voiturette )を発売し、商業的成功を収めたことを受け、ルイは兄マルセルとフェルナンと共に同年10月に「ルノー・フレール」社(ルノー兄弟社)を設立した。その後は事業規模の拡大に合わせ、1904年にはフランス国内に120店舗の販売代理店網を構えるなど、事業基盤を強固なものにするとともに。先進諸国のモータリゼーションの拡大により、イギリスやドイツ、日本など諸外国への輸出も開始した他、ロシアに工場を建設するなど急激にその生産台数を伸ばした。

生産規模の拡大

FT-17軽戦車1900年代以降は、小型車を中心とする量産政策によって生産規模が拡大したことから、先に創業されたプジョーなどを追い抜きフランスで最大の自動車製造会社となった。第一次世界大戦前後にはルノー FT-17 軽戦車等の戦車や装甲車、トラックなどの軍用車両や、飛行機および航空用エンジン、さらには小型船の開発・生産を行うなど、その事業範囲を拡大した。また、この頃から日本やオーストリア・ハンガリー帝国、アメリカ合衆国などへ販売代理店を通じて本格的な輸出を開始した他、ロシア帝国での生産を開始するなど、世界各国へ積極的に進出した。

なお1900年代から1930年代初頭までのルノーは、エンジンの直後にラジエーターを置く独特の方式を採っており、前頭部に他社のような垂直のラジエーターグリルがない、変わった形態が特徴であった。

マルヌのタクシー

第一次世界大戦中の1914年9月、パリにほど近いマルヌでは、侵攻してきたドイツ陸軍と防衛するフランス陸軍との激戦が繰り広げられていたが、フランス側は形勢不利であった。首都であるパリの危機的状況に際し、当時のパリ軍事総督であるジョゼフ・ガリエニ将軍は、パリ市内を走る小型ルノータクシー約1200台を緊急にチャーターし、完全武装のフランス軍兵士を乗せてマルヌの前線へ大量急送するという奇策でドイツの猛攻を食い止めた。

この「ルノーのタクシーによってパリが守られた」という逸話によって、その後パリを走るルノーのタクシーは「マルヌのタクシー」(Taxi de la Marne )と呼ばれることになる。

両大戦の狭間

第一次世界大戦の終戦後にはルノーを巡る情勢にも変化が生じる。戦闘用車両や武器生産という特需がなくなった上に、イギリスやドイツなどからの輸入車の増加によりフランス国内の販売競争が急激に激化したこと、競合メーカーのプジョーや後発メーカーのシトロエン等の追い上げを受けたこと、また、老年に達したルイ・ルノーが保守的な設計思想に傾いたこと、世界恐慌によるダメージを受けたことなどから1920年代から1930年代にはその地位はやや後退したものの、小型大衆車のジュヴァキャトルなどのヒットによりトップメーカーの地位は維持し続けた。

第二次世界大戦

1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦において、戦争への準備が殆ど整っていなかったフランスは緒戦から敗北に次ぐ敗北を重ねた。1940年6月にはドイツ軍がパリを占領し、まもなくフランス全土はドイツの占領下に入ってしまう。この事態を受け、ルイ・ルノーは工場と従業員を守るために、やむなくドイツの占領軍とその傀儡政権・ヴィシー政権に協力することになった。しかしその結果、ルイ・ルノーは1944年の連合国軍によるフランス解放後に対独協力者として逮捕され、同年10月、失意のうちに獄中で病死した。

なお、大戦中の1942年から1943年にかけて主力工場の1つであるビヤンクール工場がアメリカ・イギリス両軍の爆撃を受けて深刻な被害を受けたほか、戦争によるインフラストラクチャーの破壊により、生産設備や販売網が壊滅的な打撃を受けている。

国営化

第二次世界大戦中に創業者の死と生産設備の破壊という苦難に陥ったルノーは、大戦終結後の1945年に、大戦中の亡命政権・自由フランスの指導者で、新たにフランスの指導者となったシャルル・ド・ゴール将軍(後の大統領)の行政命令により国営化され、「ルノー公団」(Regie Nationale des Usines Renault )に改組され、エンジニア出身のピエール・ルフォシュー総裁の指揮のもとで戦禍により破壊された生産設備や販売網の復興を進めると同時に、戦前から行われていた新型車の開発を続行することとなる。

4CVの成功

フランスは戦勝国となったものの、連合軍の度重なる空襲を受け各地の工場施設が破壊されていただけでなく、工場を稼動させるためのインフラの整備や資材の調達にも事欠く状況であったが、従業員の士気は高く、終戦後わずか1年しか経っていない1946年のパリサロンで、フェルナン・ピカール技師が戦時中から開発を進めていた小型車「4CV」を発表し、翌年から発売した。

4CVは廉価かつ経済的であった上、当時としては優れた走行性能を備えていたことから、大衆ユーザーの広範な支持を受けた。戦後のヨーロッパにおいてベストセラーとなった他、アメリカでも多くが販売された。その結果、1961年までの間に1,105,547台が生産され、フランスで初めて100万台を超えて生産された車種になった。日本でも日野自動車が1953年から「日野ルノー」の名でライセンス生産し、その多くがタクシーとして使用されたことから、一躍日本中にルノーの名が広まった。

また、ミニマムな小型車でありながらル・マン24時間レースやミッレミリアなどの国際レースでも活躍するなど、4CVは第二次世界大戦後のルノー復興の立役者となった。

小型車

第二次世界大戦後の復興期における「4CV」の大ヒット以後、ルノーは特に小型車の分野において実績を上げた。1955年2月に死去したピエール・ルフォシュー総裁の後を継いだピエール・ドレフュス総裁指揮の元、「4CV」の系譜を引く「5CVドーフィン」や「8」などのリアエンジン小型車に続いて1960年代以降は「4」や「6」などの前輪駆動 (FF) 方式の小型車を多数送り出した。特に「4」の大ヒットは、当時行ったアメリカ進出の失敗により苦境に陥った経営を助けることになった。

他にも「カラベル」や「フロリド」などのスポーツタイプの車種にバリエーションを広げたほか、1966年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した「16」や、「12」などの比較的収益性の高い中型車もヒットさせ、これらの相次ぐヒットによりヨーロッパ有数の自動車メーカーとしての地位を不動のものとした。

先進技術の導入

フランスの多くの自動車会社の例に漏れず、ルノーも古くから技術的、デザイン的なチャレンジに対して積極的であった。1962年に発表されたリアエンジンの小型車「8」には、大量生産車として世界初の4輪ディスク・ブレーキを採用するなど、当時の最新技術を惜しげなく導入し高い評価を受けた。その後1965年に発売された「16」は、世界初のハッチバックスタイルを持つ中型車としてヨーロッパ中でヒットし、1979年までの長きにわたり生産された。

1972年に発売されたFF駆動方式のハッチバック小型車である「5」とその後継の「シュペール5」(1985年発売)は、その先進的なデザインと高い実用性、経済性が広く受け入れられて、ヨーロッパだけでなく世界中で大ベストセラーとなった。

「モノスペース・コンセプト」

また、1984年に発売された、ヨーロッパの自動車メーカーとしては最初の本格的ミニバン「エスパス」は、その未来的で斬新なデザインと実用的で広々とした室内スペース、高い経済性がフランスやイギリス、西ドイツをはじめとするヨーロッパの消費者に受け入れられて大ヒットモデルとなった。

エスパスがヒットしたことでヨーロッパ中でミニバンブームを巻き起こし、ヨーロッパの多くの自動車メーカーがそのコンセプト(ルノーでは「モノスパッセ・コンセプト」と呼んでいる)を模倣することとなった。なお、その後もルノーはエスパスの後継モデルをヒットさせている他、セニックなどのミニバンのヒット作を出している。

アメリカン・モーターズ買収

1979年には、スケールメリットとアメリカ市場への本格的進出を狙い、1960年代初頭から提携関係にあったアメリカ第4位の自動車会社、アメリカン・モーターズ(AMC)を買収し、「5」(アメリカ仕様は「ル・カー」の名で販売され、フランス国内でも一時期同名で販売された)や、1982年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー受賞車でもある「9」(同「アライアンス」)、「11」(同「アンコール」)、「フエゴ」などの複数のモデルを擁し、1950年代後半の撤退から10数年を経て再度北アメリカ市場に本格的に参入した。

アメリカン・モーターズの販売網を使ってアメリカとカナダ全土で大々的に発売を開始したものの、先に参入していた日本車やアメリカ製小型車との競争で苦戦した上に、ルノー本体の経営不振もあり、最終的に1987年に当時のクライスラーにアメリカン・モーターズを売却し北アメリカ市場から撤退した。なお、アメリカン・モーターズの売却後もクライスラーとの提携に基づき、1991年までクライスラー(イーグル)ブランドで「21」などのルノー車の販売が継続された。

民営化

1986年11月17日には、アメリカ進出失敗などによる財政再建への打開策の一環として、民営化に向けた舵取りを取っていた当時の会長のジョルジュ・ベスが、パリの自宅の玄関前で左翼テロ集団の「アクション・ディレクト」に暗殺されるという悲劇が起きた。

その後、ベスの後を次いで会長に就任したレイモン・レヴィと、ルイ・シュヴァイツァーの指揮のもと、スケールメリットを狙って1990年2月にスウェーデンの大手自動車メーカーであるボルボと業務・資本提携することを決定し、これを機会に第二次世界大戦直後から45年間続いた公団体制から株式会社に改組された。また、同1993年9月にはボルボとの完全合併案が発表されたが、フランス政府の干渉にボルボ側の経営陣や株主、従業員などが態度を硬化したことにより交渉が決裂し、同年12月には合併が正式に撤回された。

ボルボとの合併案は撤回されたものの、その後もフランス政府は株式を売却し続け、会長の暗殺や労働組合の反対という困難を乗り切って1996年には完全民営化を果たした。2007年現在、フランス政府の持ち株比率は約15%である。

日産自動車を傘下に

1999年3月27日に、当時深刻な経営危機下にあった日本第2位の自動車会社である日産自動車を傘下におさめることが発表された。その後同社と相互に資本提携し、ルノーが日産自動車の株を44.4%、日産自動車がルノーの株の15%を所有するという形で株を持ち合い、ルノーが日産自動車に経営陣を送り込むなど、親会社となったルノー主導で経営再建に着手した。

傘下に収めた後には、当時の取締役会長兼最高経営責任者 (PDG) であるルイ・シュヴァイツァーによって日産自動車の最高経営責任者(CEO)として送り込まれた副社長のカルロス・ゴーンとそのチームが、同年10月に発表された「日産リバイバルプラン」計画のもと、東京都武蔵村山市にある村山工場や京都府宇治市の日産車体京都工場などの余剰な生産拠点の閉鎖や余剰資産の売却、余剰人員の削減。子会社の統廃合や取引先の統合によるコスト削減や車種ラインナップの見直しなどのリストラを行うと同時に、新車種の投入や国内外の販売網の再構築、インテリア及びエクステリアデザインの刷新やブランドイメージの一新などの大幅なテコ入れを敢行した。

当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさなどを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行く先を危惧した。しかし、最終的には提携前の1998年には約2兆円あった日産自動車の有利子負債を2003年6月に返済し終え、再建を成し遂げた。

ルノー・日産アライアンス

また、両社の間で言葉通りのアライアンス関係を構築し、車台やエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化、購買の共同化などを通じてコストダウンを図っているほか、メキシコなどいくつかの国ではルノーの車を日産ブランドで販売したり(OEM供給)、その逆を行うなど、アライアンスの内容は多岐にわたっている。2005年1月にはルイ・シュヴァイツァーが「2010年までに日産自動車とともに世界市場の10%のシェアを確保し、年間400万台の生産を達成する」という目標を掲げた。

その後2005年5月に子会社の日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)を務めていたカルロス・ゴーンが、公団時代の1992年より13年間の長きに渡り取締役会長兼最高経営責任者 (PDG) を勤めたルイ・シュヴァイツァーに代わり、親会社であるルノーの9代目の社長兼最高経営責任者 (PDG) に就任し(子会社の日産の社長兼CEOも兼務)、それを受けシュヴァイツァーは取締役会長 (PCA) に就任(2010年6月23日に退任)した。

現在

その後デザイン担当副社長のパトリック・ルケモン(Patrick le Quément、2011年現在は引退 )による斬新なデザインや、品質と安全性の向上が市場で好評を博したことにより、小型車メガーヌやルーテシア(日本市場以外では「クリオ」の名で販売されている)、MPVのカングーやセニック、エスパスが大ヒットするなど、再びフランスのトップブランドに返り咲いただけでなく、1998年以降6年連続でヨーロッパ市場でトップの販売台数を誇っていた。近年ではアフリカやメルコスール市場を中心とした南アメリカ、アジアなどでの売り上げが伸びている。

2005年11月には、ヨーロッパで最も権威のある自動車賞である「2006年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー」を発売されたばかりのクリオが受賞した。なお、ルノーにとって同賞を受賞するのは2003年のメガーヌ以来3年ぶり6度目、クリオとしては1991年以来2度目で、同車種が2度同賞を受賞するのは史上初のことである。

2006年2月9日には、関連会社の日産自動車に対するリストラのような従業員の解雇を行わずに、2009年の販売台数を2005年の約250万台から80万台多い330万台とし、2009年の売上高に対する営業利益率を6%にするという内容の中期経営計画「ルノー・コミットメント2009」を発表した。この計画の中には、2009年までにルノー初のSUVを含む26車種の新型車の投入が含まれ、2007年内だけで初の本格的SUVであるコレオスやラグナ3、カングー2が新たに投入された。

さらに2008年には、2012年までに複数のルノーブランドの電気自動車(EV)を市場投入することも発表されたが、これに先立つ2011年には、複数の幹部が電気自動車関連の機密情報を中華人民共和国の企業に漏えいさせたとして解雇される騒動が起きた。

Renault S.A.S.

種類 株式会社
本社所在地 フランス
ブローニュ=ビヤンクール、ケ ル・ガロ13-15
設立 1898年10月1日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車
代表者 カルロス・ゴーン(取締役会長兼CEO (PDG)、
子会社の日産自動車の社長兼CEOと兼務)
資本金 10億8,561万0,419.58ユーロ
売上高 406億82百万ユーロ
(2007年12月31日終了事業年度)
主要株主フランス政府 15.01%
日産ファイナンス(株) 15.00%
(2007年12月31日現在)